☆愚の骨頂。☆
2004年1月25日少し前まで、私は音楽を滑稽なものだと思っていた。
音楽は人に感動を与えるもの、とか、そういう言葉を聞くことはあったけれど、そういう言葉の真意を理解するには至っていなかった。
だから私は今までずっと、音楽と言うものに情熱を傾けることは無かった。
そういう私が、自他ともに認める「音楽馬鹿」になったのは、感動を与える音楽というものに出会い、その素晴らしさを知り、自分もそうした感動を味わいたい、人に味わってもらいたいと思ったからだ。
人に感動を与える音楽っていうのは、はっきりいって技術的なことは全く問題じゃない。
感動を与えようとする側の熱意とか情熱とか、そういう感情の生み出す一体感とか。音楽という、それに関わるもの全てが1つとなろうとする時に、音楽の素晴らしさって2倍・3倍・それ以上に膨れ上がっていくのだと思う。
今の私はどうか。
自分たちの音楽は、かつての自分のような人が滑稽と思うことなのではないだろうか。
そう思うと、そうした現状を打破できない自分自身に、この上ないもどかしさと悔しさがのしかかってくる。
音楽は人に感動を与えるもの、とか、そういう言葉を聞くことはあったけれど、そういう言葉の真意を理解するには至っていなかった。
だから私は今までずっと、音楽と言うものに情熱を傾けることは無かった。
そういう私が、自他ともに認める「音楽馬鹿」になったのは、感動を与える音楽というものに出会い、その素晴らしさを知り、自分もそうした感動を味わいたい、人に味わってもらいたいと思ったからだ。
人に感動を与える音楽っていうのは、はっきりいって技術的なことは全く問題じゃない。
感動を与えようとする側の熱意とか情熱とか、そういう感情の生み出す一体感とか。音楽という、それに関わるもの全てが1つとなろうとする時に、音楽の素晴らしさって2倍・3倍・それ以上に膨れ上がっていくのだと思う。
今の私はどうか。
自分たちの音楽は、かつての自分のような人が滑稽と思うことなのではないだろうか。
そう思うと、そうした現状を打破できない自分自身に、この上ないもどかしさと悔しさがのしかかってくる。
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